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青みがかった蛍光灯のひかりがおちる寝室は、他人の家のようによそよそしく、かえって気がやすまる。
昼光色というのだそうだ。
真昼の曇天。
雲にさえぎられてもやすまない昼のひかりは、寝室はもちろん、家族や恋人がよりそってすごす部屋には、あまりふさわしくないかもしれない。
夏のまひるの、くもりぞらのしたであそぶこどもたちの喧騒に、どこかとおい幽霊じみたしらじらしさがただようように。
つめたい淡水がみちたような家。
水の気配とおもったのは、じつはこの、水の粒子ごしにひろがるひかりだった。
ガラスを多用した壁面と規則ただしく配された天窓、どれもきれいに直角の、昼のあいだはそのすべてからこの国のひかえめな太陽光がふってくる。
立方体が複雑に組みあった直線の器の、いたるところに回廊と窓と窓と窓、しろいひかり。
放射状に配された天窓の中心には、空を切り込むような縦横おなじ長さの十字。
よくできた白昼の天国。
でもかれらは夜の住人だ。
太陽ではなく 、ガラス管のなかの電子がはなつひかりのしたの。
だからハイネルはこの家を建てたとき、しきりに照明の色を気にして、家じゅうの蛍光灯を、すべておなじ色、午中の曇天の太陽の色で発注した。
昼光色というなまえは、ハイネルが内装業者と打合せしているのを聞きかじったのだ。
ハイネルはわざわざ、太陽のひかりのない、よるのようすをCGでシュミレートしてみせてくれだが、アプローチの青白いフットライトに浮かび上がったそっけない家をみて、まるで病院だと内心辟易したものだ。
それでもグーデリアンは、 なにからなにまでハイネルのいいようにさせたかったので、ただ同意にほほえんだ。
ところが、内装業者が蛍光灯の種類をまちがえて、はじめてあかりをつけたかれらの家はほとんどゆうぐれのようなオレンジ色だった。
グーデリアンは、これはこれであたたかくていい、とおもい、そういったのだが、ハイネルは一考することもなく即座に換装を言い渡していた。
おちつかない、とハイネルはいうのだ。
脂汗をうかべた担当者が外注業者に電話で確認をとっているあいだ、 ハイネルはそのすぐ横にはりつき、おちつかない、ねむれやしない、といったことばを口のなかでくりかえしていて、グーデリアンは、知ってはいたがずいぶん神経質だな、おかしな男だ、と赤の他人のように感心した。
じっさい、かれらはどんなちかくで暮らそうと、他人で、とおい生きものだ。
照明の色にちがいがあることだって、グーデリアンは知らなかった。
興味がないのだ。
ハイネルは、かれの知らないことばかり、ねらいすましたようによく知っている。
とうぜん、かれがよく知っていることにかぎって、ハイネルはまるで知らないのだった。
ハイネルがゆずれないのは蛍光灯の色。
グーデリアンはといえば、玄関、バスルーム、それからベッドとキッチンの距離が極力みじかければそれでよかった。
かちあわないし、かみあわない。
その日のうちに家じゅうがハイネルののぞむ硬質なひかりにつつまれ、グーデリアンはめずらしく、この青白い家での生活はどれくらいつづくかな、とおわりのことをかんがえていた。
結果をいうと、もう年をかぞえるのもばかばかしいほど、かれらはいっしょにいる。
そして可能なときには、この部屋でねむる。
ひとのにおいのしない、完成したばかりの手術室のような部屋。
ハイネルが身じろぎするたび、シーツがしゅるりとここちよい音をたてる。
すずしげで、清潔そうで、すこし他人行儀な音だ。
うすい雪のようなひだをつくる布地にしずんで、寝物語の気配に耳をすませる。
「おまえの国の話なんだ」
「へえ」
「あるひとりの大統領候補が、こんな公約をする」
こんなに大きくてぶざまな国に住むにはありったけの身内が必要だ。
おまえの国の話だ、とハイネルは笑いながら念を押す。
だから、アメリカに住むすべての人間に、人工のミドルネームをつける。
花か果物か木の実か野菜か豆類、その他もろもろの名詞と1から20までの数字をくみあわせたものだ。
たとえば、オイスター-19とか、ダフォディル(黄水仙)-5とか。
そしておなじミドルネームをもつ人間は、いやおうなしに、『人工的な拡大家族』になる。
だれもが突然 、1万人の兄弟姉妹と、19万人のいとこを手に入れる。
だれひとり、かえりみてくれる人間、気にかけてくれる身内がいなかったひとにも。
なんてたくさんの家族。
「だれもが、どこへいっても身内をもってる。スローガンは『もう孤独じゃない!』」
「すてきだな」
「そういうだろうとおもった」
「おまえはそうおもわない?」
「もちろんそうおもわない人間もいる」
かれはとうぜん、アメリカ大統領になる。
公約は実行される。
そして、公約に反対するひとびとも、結局は、人工的な拡大家族をつくるのだ。
そしてかれらはこんなスローガンをかかげる---
「『孤独でよかった』」
「おまえはそのクチだろ?」
「どうかな」
わらうハイネルは、じぶんでもわかっていないようにこころもとない。
しろい頬には、この部屋の青いひかりがよくあった。
つやのないかわいた白さは、象のほねのようだとグーデリアンはおもう。
ふれると粗い紙の目に似た感触。
「かれはこれでかなしいことがずっと減るとしんじてたんだ。ほんとうに、でもそれは、」
ゆっくりとことばを切る、目は異国よりもとおい場所をみて、
「世界ではじめてじぶんがひとりぼっちなことに気づいたにんげんが、」
ゆびさきがとなりにある存在をわすれ、
「『さあ、たいへんだ、ひとりになってしまった、いそいでもとにもどらないと』って、つくった法律みたいにおもえたんだよ」
わずかに光沢のある白い生地をつかんだ。
「じぶんはむかしとても完全だった。ひとりじゃなかった。でも、もうむかしのことをおもいだせないんだ。それで、なまえをつけた。ひととおなじなまえを。ひとりぼっちじゃないなまえを」
「さびしいな」
あいづちをうつグーデリアンの、声はかれのどこまでとどいているのか、ハイネルはひくく息をおとしてつづける。
「ひとりぼっちじゃなくなるために、身内と身内じゃない人間をわけなきゃならなくなった。それはごく自然で、ただしいことだ。わたしもそうしてる。でも、やりきれない。なに不自由ないから、すこし、やりきれないな」
なんでもないことのようにこんなことをいう、しぐさはまるきりこどものようで、かわいた肌とは対照的なおさない白目がなまなましかった。
「むりなことばっかりいうんだね」
そういうところがすきだけど、と額をあわせると、やっと恋人にきづいたように、ハイネルは目をまたたかせる。
「おまえはそんなこといってばかりだな。好きだらけじゃないか」
「すきなとこもきらいなとこもたくさんあるけど、まあ、そのなかでもとりわけそういうとこがすきってこと」
とりわけ、ということばを、使いなれない道具をひろいあげるぎこちなさで発音して、グーデリアンは歯をみせた。
「とりわけ、ね。どういうところがすきなんだ?」
「わがままで、ごうつくばりで。ないもいのねだりで」
ハイネルが怒ったそぶりでふくらはぎをゆるくけりあげてきた。
「さびしがりやなとこ」
ながいうでが、骨のない動物のように首にからみついてきた。
年をかさねるごとに、かれらの時間はこどものようになる。
ただふれるためにからみついてくるうでやゆびさきには、もう性的な意図はなく、こどもが母親にすがりつくような必死さを皮膚のしたにかくしている。
そしてそんなこどもじみた懸命なたわむれを、ひどく冷静にみつめている自身の視線が、かれには不似合いに研ぎ澄まされていくのを、グーデリアンはこんなとき、もうひとつべつのまなざしで気づくのだった。その視点にあるかれは、平静をうしなうことも、冷静でいることも同時にわすれて、不安定にかたちをかえる。
あの日、いつまでこの生活がつづくだろう、とかんがえていたかれ自身は、きっとそんなにながくない、とすでに結論をだしていたのだとおもう。
不似合いな、そのときのかわいた心情をおもいだすたび、かれはふしぎなおもいにとらわれる。
だからよけい、いままだかろうじてつながっているこのときに、ちゃんといっておかねばとおもうのだ。
「でもさ、それはそんなにかなしいことじゃないとおもうよ」
首にまきついた手首をそっとつかんで、てのひらを両手でつかまえてやる。
ハイネルはふしぎそうにじぶんとじぶんのものでない手をみつめて、でもしっかりとにぎりかえしてきた。
「俺たちはいつだって見ず知らずのひとに親切にしたいし、親切にされたいんだ。そのひとがどんなひとでも。ただそういうきもちは、そうだな、……ちょっとやそっとじゃ、でてこないところにかくれてるんだ。そこらじゅうをあるいてるひとがみんな、じぶんによく似たいきものなんだって、きっと死ぬまでおもいださないにんげんもいるさ。つかったことのない内ポケットみたいに。だから、あ、あったんだ、っておもいださせてくれるものだったら、なんだっていいんだ」
「楽観的だな」
「前向きなんだ」
アメリカ人だからね、とグーデリアンはじぶんを揶揄するように胸をはる。
ハイネルは、真昼のようにわらっている。
線対称なわらいかたが、はじめはとてもうす気味わるくて、 この低温の笑顔をいつからすきになったのだろうとふしぎになる。
だから、その顔がすきだとほおにキスすると、ハイネルはにぎりこまれたてのひらをむずがるようにひろげて、また首にしがみついてきた。
世界はそれほどかなしい場所じゃない。
そればかり言い聞かせている。
ずっとむかしのかれは、それをそのことばのまま、ほんとうにして信じていた。
いまは、おとなだからしかたがないけれど、それがたちの悪い嘘であることを、とうに気づいている。
ただ、一瞬でも、ハイネルがだまされてくれればそれでいいのだ。
世界はそれほどかなしい場所じゃない。
かれがそういうとハイネルは、知らずやわらかくわらう。
安心したこどものように。
とおい異国の。
グーデリアンにはそこが、うそもほんとうも、どちらもおなじ重さになる場所だ。
ハイネルがそんなふうにわらうと、グーデリアンは安心して、そしてどうしてそんなわらいかたをするのだろうとおもう。
にせもののことばと、
にせものの安心と、
それに対するつよい憎悪と、
どうしようもない依存と、
だけどそれのなにがわるいというのか。
それがにんげんで、にんげんの世界だし、グーデリアンは、そういったものすべて、手ばなしですてきだとおもう。
でもハイネルはにくんでいる。
ありったけの悪意で。
じぶんとじぶんのあいするものぜんぶ。
グーデリアンは、そんなハイネルがどうしうようもなくすきだ。
わがままで、ごうつくばりで、ないものねだりで。
そしてきっと世界でいちばん、ひとりぼっちでいたくないのだ。
だから、さびしいということを、だれよりよく知っている。
ひとが気づきもしないで一生を終えるような、些細で根深い孤独まで。
ハイネルがおしえてくれた孤独のバランスは、グーデリアンが立っていくうえで、どうしても欠かせないものになっていた。
さびしさの いろいろな色。
ひとりでいるさびしさ、手をつないでいる孤独、世界につながらないこころもとなさ、つながっている、胃の溶け落ちるつめたさ。
グーデリアンはそれを知らない。
ただ、ハイネルがふいにこぼす、けっして多くはないことばからかいま見られるその世界、その感覚は、いつも透明で暗く、ゆびさきから心臓までじわりとしみとおる。
かれがきっと、一生知ることのない世界。
おなじようにきっとかれも、ハイネルの知らないなにかを、知らずおしえているのかもしれない。
だからこんな、ひとがいっしょに住めない家で、ずっと暮らしていけるのだ。
たぶん。
その話はどんなふうにおわるの、と訊くと、ハイネルはただ、とてもうつくしいおわりかただ、といった。
「おまえはどうして、俺といるときに、そんなさびしい話ばっかりするんだろうね」
髪を梳いて、目を合わせるとハイネルはまた目の色をうすくしてわらい、目の前にあるくびすじに顔をうずめてきた。
「ひとりぼっちだからな」
「ひとにちからいっぱいしがみついといて、よくいう」
「それは重力の問題になるから」
できのわるい、おきにいりの生徒にとっておきをいいきかせる口調で、グーデリアンはやっぱりその声もすきだとおもった。
「力学的な問題なんだ。自由落下の公式がからんでくる。ちょっと難しい話になる」
公式、という単語にすなおに反応して、グーデリアンは遠慮なくあくびする。
ハイネルは、いとおしそうにちいさく笑うと、かれのまぶたを親指の腹でそろりとなでた。
皮膚越しに、ひかえめなあたたかさが眼球をすべって、グーデリアンは一瞬ねむっていたのかと錯覚する。
それはここでなく、かれの育ったひろいあたたかい土地の空気のなかで。
グーデリアンが唐突ななつかしさにおどろいていると、ハイネルは、かれの目をのぞきこんで、また線対称に笑んでいた。
「眠っていいぞ。あとは勝手にしがみついておくから」
「落ちないように?」
「酔わないように」
「重力酔い?」
乗り物酔いっていうのはなグーデリアン、重力に酔うんだ、重力の変化だよ、とハイネルはくすくすわらったが、グーデリアンはそれがうそでもほんとうでも、かまわなかったので肩の上の頭をそっとなでて、あやすようにこういった。
「こんどきかせて」
「なに」
「力学的な話も」
「うん」
「あのさ」
「なに」
「わかってやれたらいいんだけど」
「……うん」
入眠の許可を出した張本人は、おまえがそうおもってることはよくわかってる、というような意味のことばを、簡潔に、でも不明瞭においたままもう呼吸を深くしていて、それがことばどおりの、意味だったのかはとうとうわからなかったが、グーデリアンはそうおもうことにした。
わかってやれたらいいんだけど。
きみのながい手足がどうしてそんなに重いのか、 きみがときおり立ちどまる理由、ふいに視線がとびこえるさき、これといった理由のない、きみのひややかな空洞。
理由のないものにこたえはない、と恋人に似た口調でうそぶいて、ゆるやかな重力と青いひかりがゆれる部屋で、かれは今日もねむりにつく。
『
全世界の日没を乱反射するはげしい光彩
成層圏よりももっと高い所から落ちてくる
魂の重力
』